京都地方裁判所 平成7年(ワ)629号 判決 1997年1月24日
原告
甲野花子
同
甲野太郎
右両名訴訟代理人弁護士
青木一雄
同
岡田正男
同
岡田美保子
被告
日本赤十字社
右代表者社長
山本正淑
被告
乙山次郎
右両名訴訟代理人弁護士
莇立明
同
脇田喜智夫
同
山下信子
主文
一 原告らの請求をいずれも棄却する。
二 訴訟費用は原告らの負担とする。
事実及び理由
第一 請求
被告らは、原告甲野花子及び原告甲野太郎それぞれに対し、金一六〇〇万円及びこれに対する平成七年四月五日から支払い済みまで年五分の割合の金員を支払え。
第二 事案の概要
一 本件は、ダウン症候群に罹患する先天性異常児の両親である原告らが、同児の出産前に、担当医師が先天性異常児の出生前診断である羊水検査の実施の依頼に応じず、また、適切な助言等をしなかったため、同児を出産するか否かの判断をするための検討の機会等を奪われ、精神的損害を被ったなどとして、担当医師及び病院経営団体に対し、不法行為に基づき、慰謝料の支払いを請求した事案である。
二 紛争に至る経緯
争いのない事実及び証拠により認定できる事実は以下のとおりである。
1 当事者ら
(一) 被告日本赤十字社は、京都市上京区釜座通丸太町上ルにおいて京都第二赤十字病院(以下「被告病院」と言う)を経営するものであり、被告乙山次郎は本件当時、同被告に雇用されていた産婦人科の医師である(争いがない)。
(二) 原告らは平成六年二月一一日に婚姻した夫婦である。
原告甲野花子は、昭和二九年八月三〇日生まれで、平成五年、原告甲野太郎の子を懐胎し、同年一一月八日より被告病院に通院し、満三九歳一〇か月にあたる平成六年七月四日に初産を予定していた(原告花子、乙二、一七)。
2 被告病院受診の経過
(一) 原告花子は、訴外開業医から左卵巣嚢腫の診断を受け、平成五年一一月八日、腹痛を伴う妊娠のため、被告病院を訪れ、奥村医師の診察を受けて、超音波検査を受診したところ、妊娠六週目で、卵巣嚢腫等の疑いありと診断され手術を勧められた(争いがない)。
(二) 同月一八日、原告花子は、被告病院で荻野医師の診察及び超音波検査を受けたが、その結果は、胎児に異常はなく、左卵巣嚢腫があるというものであった(争いがない)。
(三) 同年一二月一三日原告花子は、右手術のため被告病院に入院し、乙山医師が主治医に決定した。そして、同月一五日、開腹手術を受け、子宮筋腫と診断されて筋腫核出術を受け、同月二九日に被告病院を退院した(争いがない)。
(四) 原告花子は、被告病院を、平成六年一月四日(以下、いずれも同年のことである場合に年号の記載を省略する。)、手術等の麻酔後の頭痛で、同一一日には、同月六日に嘔吐があったとして嘔気で、同月二〇日には、頭痛で、それぞれ受診した(争いがない)。
(五) さらに、原告花子は、二月一日に、左下腹部の痛みで、被告病院に来院して乙山医師の診察及び超音波検査を受け、円靱帯けいれんと診断され、同月一五日に、左下腹部痛、腹部緊満で被告病院に来院して乙山医師の診察を受け、胎児精検を受けた(争いがない)。
(六) 六月七日、原告花子は、被告病院において、長女甲野春子を出産したが、同児は先天性ダウン症候群をもつ先天性異常児であった(争いがない)。
(七) 春子がダウン症であることを知った原告花子は、精神的に不安定な日々が続き、六月二〇日ころまで羊水検査についての不満を被告病院側に訴え(原告花子、甲九、乙二、四)、退院後の八月二六日、九月一六日、九月二五日頃に、原告太郎と被告病院との話し合いがもたれたが、両者の言い分は食い違っていた(原告花子、甲九、乙一二から一四)。
三 原告らの主張
1 ダウン症児の出生前診断について
(一) ダウン症候群について
ダウン症をもつ子供は、一般的に体が小さく、目が特徴的につり上がり、両眼の内角がひだで覆われており、口が小さく、舌が搬出しており、手の指が短く、小指が内側に曲っているなどの所見を有し、知能の発達や発育が遅れ、心臓の故障を生じる者が多い。
春子は、出生後九か月を経てようやく首が据わるなど、発達の遅れがあり、体力及び抵抗力が極めて弱く、感染症に罹患しやすく、心臓動脈管開存、右手小指関節欠損等があり、左耳が聞こえない疑いや、脳に異常がある疑いがあるなど顕著なダウン症の症状を有している。
(二) 羊水検査について
ダウン症候群をもつ子が生まれる確率は、母年齢が二〇歳位で一六〇〇分の一、三五歳位で二九〇分の一、四〇歳位で一〇〇分の一となり、高齢出産においては、ダウン症児を出産する確率が高くなるが、胎児がダウン症候群をもっているか否かは羊水検査で確定的な診断が可能である。
2 検査申出拒否について
(一) 出産の決定権について
妊娠した場合に、本来妊娠を継続するか、中絶するかは妊婦本人の自由であり、妊婦自身が、あるいは、配偶者との相談のもとに決める問題である。
そして、妊婦の選択に関する倫理的な問題はまさに妊婦自身が熟慮し決定すべきことであり、妊婦らが出産するかどうかの決定権を自由意思に基づいて行ない得るためには、正しい知識と情報が不可欠であって、医師が適切な診断をするとともに、妊婦らに対し、適切な説明等をすることが必要であり、右は産婦人科医師の基本的な義務である。
(二) そして、出生前診断の対象は三五歳以上とするのが常識であり、産婦人科医師は、少なくとも三九歳の妊婦から羊水検査の申し出を受けた場合は、妊婦に対して、直ちに右検査を実施して、染色体異常の有無についての検査結果を報告するとともに、ダウン症について十分説明し、出産するか否かを判断させるための適切な助言を与えるべき注意義務がある。
(三) 原告花子は、懐胎時及び出産予定日現在で満三九歳での初産であること、妊娠初期に子宮筋腫の摘出術を受けたことから、健常児を出産できるか不安を感じ、常々乙山医師にその旨告げていたところ、最終月経から起算して妊娠一八週と一日目に当たる平成六年二月一日に、乙山医師に対して、羊水検査をしてほしいと申し出たが、同医師は「高齢高齢と気にすることはない。」などと言って、羊水検査を実施せず、同検査の結果判明に要する期間や法律上妊娠中絶が可能な時期、高齢出産に伴うダウン症の可能性等についても何ら適切に説明しなかった。
(四) 乙山医師の前記義務違反により、原告らは、先天性異常児を出産することはないと確信するに至り、もし、先天性異常児を出産する可能性について正確に知らされていたならば、出産するか否かを慎重に考慮して選択し得たのに、そうすることもできないまま、予期に反して原告花子はダウン症候群を有する先天性異常児を出産した。
3 人工妊娠中絶について
(一) 検討の機会について
本件は出産すべきか否かの検討の機会を与えられなかったことについての損害賠償請求であるから、実際に中絶が法律的に許されたか否かは問題ではない。
(二)(1) 仮に、人工妊娠中絶の可否が問題となるとしても、現在、(平成八年法律第一〇五号により母体保護法と改正される前の)優生保護法一四条一項各号に該当するか否かを問わず、人工妊娠中絶が行われていることは公知の事実であり、実際、羊水検査の結果に基づき、ダウン症児出産を回避するため人工妊娠中絶を行う例も多い。
(2) また、優生保護法上の事由の有無の認定は、一人の指定医師に委ねられており、指定医師の認定は著しい濫用にわたらない限り尊重されなければならず、優生保護法の解釈は比較的緩やかに運用されているところ、同法の解釈運用の現状からすれば、胎児がダウン症に罹患している場合には、異常児出産に対する憂慮や打撃から母体の精神的又は身体的健康を著しく害し、又、出産後も医療費、介助費などにつき家族に深刻な経済的負担を課すものであって、優生保護法一四条一項の「妊娠の継続、分娩が身体的又は経済的理由により母体の健康を著しく害する恐れのあるとき」に該当するとして、指定医の認定を受けることができる場合等が多く、中絶を選択することも十分にあり得ることである。
(三) そして、原告花子が羊水検査の申し出をしたのは二月一日であったから、検査に要する期間が被告ら主張のとおりであったとしても、原告らは人工妊娠中絶を希望すれば法的にもこれが可能な状態にあった。
(四) 原告花子の申し出が二月一五日であった場合について
(1) 羊水検査の所要時間について
<省略>
羊水検査に必要な期間は三週間あるいは四週間とする説もあるが、実際の検査期間は二週間程度とみるべきで、実際には短い期間で検査が完了することは十分にあり得るというのが当時の医学界の常識であった。
(2) よって、仮に、原告花子が羊水検査の申し出をしたのが被告主張の二月一五日であったとしても、乙山医師は、検査期間に幅があることを認識していたのであるから、その時点で京都府立医科大学などの検査機関に検査の所要時間を問い合わせ、早期に検査を実施するよう依頼した上で羊水検査を実施すべきであり、また、仮に被告病院では羊水検査を実施しない取り決めになっていたのであれば、申し出を受けた際に、直ちにその旨を告げて羊水検査を行なっている他の施設を教えるべき義務があったにもかわらず、検査結果の判明は三ないし四週間を要するなどと軽信し、右のような措置を取らなかったのは医師としての注意義務を怠ったものである。
(3) また、<省略>、満二二週というのは胎児の母体外生命保持の可能性についての厚生事務次官通達によって示された基準に過ぎず、医師の客観的判断が当然優先するものであって、個々のケースによって一定の幅があるものであるから、仮に妊娠二二週を過ぎてからダウン症の罹患が判明した場合であっても、なお中断が可能であることも十分考えられ、乙山医師の拒否の理由は人工妊娠中絶期間についての誤信に基づくものである。
4 仮に結果判明が中絶可能時期後となる場合について
仮に、本件において羊水検査の申し出に基づいて羊水検査を実施した場合に、検査結果が得られる時期が中絶が可能な期間の経過後であったとしても、予め胎児の異常の有無を知りたいが故に検査を望む者にとっては、出産後に不意打ち的に打撃を受ける方が、出産前に先天性異常児であることを告げられるよりも、より大きな精神的動揺をきたすことは明らかであって、原告らは右羊水検査によって染色体異常が判明していれば、出産前に精神的準備を行なう機会を得られ、先天性異常児を出産したことによって不意打ち的に受ける精神的苦痛を避けることができたのであるから、医師としては検査を実施できるようにすべきであり、原告花子の申し出を拒否した乙山医師の行為は医師としての義務に反する。
5 高齢出産の場合の一般的説明義務について
(一) 仮に原告花子からの申し出がなくても、原告花子と被告日本赤十字社との間の契約は出産介助、出産に至るまでの定期検診にとどまらず、必要に応じ種々の検査、治療、指導を受けることを継続的に約した準委任契約を含むものであって、主治医である乙山医師は、産婦人科医師として、妊婦である原告花子の健康を管理し、健常児を出産することができるよう配慮すべき義務を負っており、妊婦に異常児出産の危険性があり、特に異常児出産の場合に生じる結果が深刻である場合には、その確率は低くても、危険性の有無、程度を的確に診断するとともに、妊婦に対し、妊娠を継続して出産すべきか否かを検討する機会を与えるため、その危険性等について十分な説明を行い適切な指示をすべき義務を負っていた。
(二) 高齢出産においてはダウン症候群をもつ子を出産する確率が高くなるが、懐胎時において三五歳以上であれば、出産前診断の対象とするのが常識であり、少なくとも三九歳以上の妊婦に対しては、高齢出産に伴う染色体異常によるダウン症候群の確率やその検査方法としての羊水検査につき、適切な時期に積極的に説明し、同検査を受けるか否かの判断をなす機会を提供すべき義務がある。
(三) 原告らは、子の親として胎児に異常があるか否かにつき切実な関心や利害関係を持つ者として、出産すべきか否かを検討する機会を与えられる利益を有し、医師から適切な時期に高齢出産に関するダウン症候群の危険性及び羊水検査に関する適切な説明を受け、羊水検査を受検するか否かを決定し、受検の結果異常が判明した場合には、妊娠を継続して出産すべきかどうかを検討する機会をもつことができたはずであるのに、乙山医師の原告らに対する前記義務違反によって、羊水検査の実施及び出産を検討する機会を奪われた。
6 損害について
(一) 原告花子は、全く予期に反してダウン症候群を有する先天性異常児を出産し、原告らは極めて深刻な精神的苦痛を受け、その後も春子が諸検査を受ける度に異常な結果が判明し、新たな精神的苦痛を受け続けている。
(二) 原告らは、今後、春子を保育監護していくにつき健常児に比して極めて大きな苦労や労力を余儀なくされており、障害児の出産により極めて重い経済的物質的負担を強いられることが明らかであって、右は、慰謝料算定の際に斟酌すべきである。
(三) これらの原告花子、原告太郎の受けた精神的苦痛を慰謝するにはそれぞれ金一五〇〇万円が相当である。
(四) また、原告花子、原告太郎は本件訴訟の遂行のため弁護士費用として各々一〇〇万円ずつを支払う旨約している。
7 まとめ
よって、乙山医師は不法行為に基づき、被告日本赤十字社は同人の使用者として、原告らそれぞれに対し一六〇〇万円の損害賠償をすべき義務を負う。
四 被告らの主張
1 原告花子の申し出とこれに対する反応について
(一) 原告花子は、妊娠全期間を通して、医師及び看護婦に対して、子宮筋腫の手術後の出産と、中毒症などの母体合併症、早産、難産の対策、分娩方法についての不安を表明し、乙山医師はその都度説明してきたものであったが、原告花子には高齢妊娠により先天性異常児を出産する可能性に対する一般的な不安感があったとしても、現実的かつ具体的なものではなく、予め現実に中絶する予定をもって羊水検査を求めようとはしていなかった。
(二) また、原告花子からは、健常児の出産等についての具体的な質問は妊娠二〇週以前にはなく、妊娠一八週と一日目にあたる二月一日にも原告花子から羊水検査の申し出はなかった。
(三) 原告花子から乙山医師に対して羊水検査の相談があったのは、妊娠二〇週に入った二月一五日の一回のみであって、この時、乙山医師は、原告花子に対し、「羊水染色体検査は、穿刺して培養が必要なために結果判明までに三から四週間かかり、妊娠二二週になると法律上妊娠中絶は不可能で、たとえ異常が判明しても中絶は出来ず、落胆するのみである。」と説明し、原告花子は納得して重ねて質問はしなかった。
2 人工妊娠中絶の可能時期について
(一) 中絶の選択等の法的利益について
原告らは先天性異常児を出産するか否かを慎重に考慮して選択しえた筈であると主張するが、要するに先天性異常児を人工妊娠中絶する自由あるいは事実上の機会を奪ったとするものであって、右のような自由は法的に保護される利益ではない。
(二) また、優生保護法上、人工妊娠中絶ができるのは「胎児が母体外において生命を保持することができない時期」とされ、右時期は、厚生事務次官通達によって「通常満二二週未満」と指定されており、この期間は任意に変更できないものであるから、妊娠二二週を過ぎた妊婦に対して人工妊娠中絶を行って先天性異常児の出産を回避することは禁じられており、医師の判断によってもその期間の延長はできない。
(三) 右通達により人工妊娠中絶の可能期間が妊娠二二週未満に変更されたこと、羊水検査が一〇日ほどで出来るようになったのは最近で、結果判明までに三から四週間必要であって、当時の京都市内では大学の研究室等の他の検査機関に依頼していたため、結果判明まで最低三週間は必要であったこと、羊水検査の手技上の安全面等から、羊水検査は妊娠一六から一八週に行なわれるものであって、原告花子から羊水検査の実施を求められたのが二月一五日であった以上、右申し出に基づき羊水検査を実施していたとしても、人工妊娠中絶を前提とした羊水検査の施行時期は過ぎており、人工妊娠中絶をする余地はなかった。
3 羊水検査の実施説明義務について
(一) 高齢を理由とした羊水検査は、暗黙のうちに、妊娠中期の妊娠中絶を前提とし、あるいは見込んでいることから、倫理的な問題があり、その実施には未だ社会的コンセンサスが得られてはいない。
(二) また、母体年齢の増加に伴い染色体異常を出産する率が統計的に増加し、出生前診断の対象については、満三五歳以上とする施設もあるが、一般的には満四〇歳以上とする施設が多く、高齢出産であるからといって直ぐさま奇形や染色体異常に結び付け過度に危険性を強調することは適切ではなく、年齢にとらわれること無く母子保健全体を勘案した個別的対応こそ必要であって、その適応や診療する側の対応や説明も確立されていない。
(三) そして、羊水検査は、平成六年二月当時は、商業ベースではない限られた施設に依頼する特殊検査であって、被告病院では羊水穿刺による染色体異常を検査する設備もスタッフもおらず、限られた研究機関に嘱託する方法しかなく、倫理上の観点から、母体高齢を適応とした羊水検査の実施、斡旋、紹介は一切行っておらず、他の病院での任意の受診を教示する程度であった。
(四) 本件では、原告花子の申し出に従って羊水検査が実施されたとしても、検査の結果が判明した後では人工妊娠中絶をする余地はなかったのであって、先天性異常児の出産は回避できなかったのであるから、原告らには出産するか否かの選択の余地はなく、原告花子の場合は満三九歳であって、満三九歳の妊婦の場合の危険率は0.65%に過ぎないのであるから、心配しても無意味であることを理解して出産に期待をもってもらうしかなく、乙山医師は、ダウン症候群の可能性について説明することは原告花子の不安感を駆り立てるだけで有害であると判断して、それ以上に詳しく説明をせず、又羊水検査も行わなかったのであるから、乙山医師の行為に過失はない。
(五) また、いかなる年齢でも先天性異常児を出産する可能性はあるのであって、先天性異常児を出産する可能性について正確に知らせる義務などなく、医師が羊水検査の申し出に応じなかったことにより、健常児が出生すると保証したわけではない。
(六) さらに、出産前に先天性異常児であることを両親に告げるのは、かえってその精神的動揺を惹起させる機会になることも十分予想されることから、羊水検査を実施しなかったこと等が、先天性異常児を出産することへの精神的準備を行う機会を奪ったものとは言えない。
4 満三九歳の妊婦に対する羊水検査の説明義務
(一) 羊水検査の実施は、妊娠中期の人工妊娠中絶を暗黙の前提としていることから倫理的な問題があること、妊婦の側にも個人の倫理観が絡んで、診療する側からの検査に関する情報提供を望まない例もあること、妊婦は様々な情報源から高齢出産のリスクや羊水検査について知識を習得できること、医師が右につき説明すべきか否かについては人権意識、倫理観に関係することから定説はなく、その適応や診療側の対応や説明も確立されていないこと、少なくとも満四〇歳に満たない妊婦に対しては出生前診断の対象には該当しないこと、胎児因子(胎児奇形等)を理由とした人工妊娠中絶は法律で禁じられていること等に鑑みても、妊婦から医師に対する相談や質問もない場合に、診療側から検査について申し出たり説明をしたりすることは一つのサービスであるとは言えても、医師が満三九歳の妊婦に対して積極的に高齢出産に伴うダウン症児出生の可能性や羊水検査の必要性について説明すべき義務が確立されているとは言えない。
(二) 原告花子の場合について
また、原告花子は、羊水検査の実施が適切とされる時期には、子宮筋腫の手術後で切迫流産の危険をもち、精神的不安を抱えた状態であったことから、乙山医師は流産の危険を助長することになる羊水検査の実施を勧めることはできなかったのであって、右は医師としての当然の対応である。
また、原告花子は高齢出産の場合にダウン症児を出産する可能性があること、それを事前に予知する方法として羊水検査の方法があることをすでに一般的知識として持っていた。
5 損害について
(一) 原告花子が先天性異常児を出産したことで原告らが受けたと主張する精神的苦痛と、先天性異常児と判明した胎児を人工妊娠中絶を行って抹殺することにより原告らが受ける精神的苦痛は同じようにあるはずであって、両者は比較できない。
(二) また、原告らの請求する慰謝料額は多額であって、春子の保育監護料的なものも含まれており慰謝料の枠をはみ出ている。
五 本件の争点
1 原告花子の羊水検査の申し出の時期
(一) 原告花子供述の信用性
申し出は二月一日(妊娠一八週)か
(二) 乙山医師供述の信用性
申し出は二月一五日(妊娠二〇週)か
2 人工妊娠中絶について
(一) 妊娠中絶が法的に可能な期間について
(二) 羊水検査の回答に要する期間について
(三) 人工妊娠中絶は可能であったか
3 原告花子の申し出に対する乙山医師の対応に過失はあるか
(一) 出産を検討する機会を得るべき利益の侵害について
(二) 妊婦に対する出産の準備のための事前情報提供義務について
4 満三九歳の原告花子に対し、出産を検討するのに必要な情報として、適切な時期に、ダウン症児出産の危険性や羊水検査等について説明をすべき義務はあったか。
5 損害
第三 当裁判所の判断
一 前提となる事実
1 ダウン症
ダウン症は、何らかの原因により二一番染色体の過剰(トリソミー)を起こした生殖細胞が受精に関与したために生じた先天性異常であって、個体差があるものの、筋緊張低下、短頭、外上がりの眼裂、心奇形、耳介などを主な臨床症状とし、知能発達の遅れなどを特徴とする(甲一、二、乙八、三〇)。
2 春子の症状
春子は出産直後乙山医師から顔貌等により、ダウン症と判断され(乙山医師)、二歳四か月の段階でも体の発達が遅れ、平成八年六月一〇日に心臓の手術を受け、八月九日位から肺炎で入院したりなどしている(原告花子)。
3 羊水検査法
(一) 羊水検査は、羊水穿刺等により採取した羊水中に浮遊する細胞を培養して(羊水細胞培養法)、分裂中期像から染色体標本を作成し(染色体標本作製法)、染色体を分析する検査で、我が国でも昭和四四年に第一号が報告され、昭和四七年頃から数施設で始められ、染色体の先天異常の出生前診断等に用いられている(甲一、乙五から九)。
(二) そして、羊水穿刺は、一般的には経腹壁法が行なわれており、妊婦を伏臥位にして、超音波診断装置を用いて胎児、胎盤等を写し、穿刺針を腹壁から子宮壁を通って羊膜腔に向かって刺入し、約一五から二〇ml程の羊水を吸引するというもので、子宮侵襲性のある検査法である。また、血液の混入で培養時に細胞が増殖しない場合や母体細胞の混入の場合には結果が失敗する場合もあるものの、技術的に難しい検査とはされていない(甲一、乙七、八、一〇、乙山医師)。
二 原告花子の羊水検査申し出時期
1 本件においては、原告花子が乙山医師に対して羊水検査の依頼の申し出をしたことに争いはないものの、原告花子が何時どのように依頼したのかにつき原告花子と乙山医師の供述が食い違っているため、まず両者の供述の信用性を検討する。
2 原告花子供述の信用性
(一) 原告花子は、乙山医師に対して、「羊水検査をお願いできませんか」と申し出たのは二月一日であるとし、その根拠として初めて入った超音波検査室で申し出たこと、結婚前であったこと、定期検診でなく、母子手帳交付前であったことを覚えていると供述する。
(二) この点、確かに、証拠によれば、二月一日は定期検診の日ではなかったが、特に超音波検査が実施されたこと(乙二)、原告花子が母子手帳交付を受けたのは二月七日であること(乙一七)、原告らが結婚したのは同月一一日であったこと(原告花子、甲九)が認められ、乙山医師も原告花子から羊水検査の申し出を受けたのは超音波検査室であると供述している。
(三) しかしながら、原告花子は羊水検査を申し出た契機について、超音波検査室で受検のため仰向けになってから漠然と思いついたなどと述べている点に照らせば、同女が時期特定の根拠として述べるところはいずれも羊水検査を申し出た動機や契機に関連するものではなく、また、同女は、年が明けて何回通院したか、いつ超音波検査をしたのか、検査室で他に医師と何を話したかは覚えていないと述べるなど曖昧な供述をしており、なぜ、申し出時期の根拠として述べる点だけを記憶しているのか不自然である。
(四) さらに、原告花子の供述その他の証拠を総合しても、同女は春子がダウン症であると告知された後、羊水検査を実施しなかったことについて被告病院に不満を訴えていたものの、羊水検査の申し出の時期が被告側の主張と異なるとし、その時期特定の根拠として右の記憶があると述べ出したのは、原告太郎が八月二六日頃の被告病院との話し合いで、院長らから羊水検査の申し出があった日は二月一五日であって、その日に実施しても人工妊娠中絶が間に合わなかったために断ったという説明を受け、原告太郎が原告花子に確認して以降であって、被告病院の説明に反論する形で述べるようになったものであることから(甲九、乙山医師、原告花子)、その信用性には疑問がある。
(五)(1) この点につき、原告花子は、当初はいつ超音波検査をしたのか分からず、被告病院は原告太郎に超音波検査をした日の説明として当初二月一五日と言っていたが、その後二月一日にも検査をしたと言われ、右記憶に照らし合わせて二月一日に申し出た日付を特定したものであるなどと供述するが、原告花子が当初から羊水検査を申し出た日につき最初の超音波検査室に入ったときであると述べていた形跡はなく、原告太郎も被告病院に対する第一回目の話し合いの際にこの点を追求していた形跡もない。
(2) また、原告花子は超音波検査室に入ったのは二月一日が初めてであったと供述するが、乙山医師の供述によれば、被告病院では外来の診察室から約四、五m離れた暗室を超音波検査室としており、超音波検査を受けるときはいつも同じ部屋で行なわれるというのであって、原告花子は平成五年一一月八日、一八日にも外来で超音波検査を受検している外、妊婦検診や平成六年二月一五日、三月一一日の胎児精検でも受検していることに鑑みて(乙二、乙山医師)、不自然である。
(六) なお、原告らは二月一日のカルテ欄に胎児元気と記載がなされていること(乙二)を指摘して、右は原告花子が医師に対して胎児の様子を気にかけ特に胎児の検査を依頼するなどしたことの証左であるなどと主張するが、腹痛を訴えて受診した妊婦に対し、特に超音波検査をした場合に胎児の様子に異常がないことをカルテに記載するのは何ら特異なことではないから(乙山医師)、右主張は認められない。
(七) よって、羊水検査申し出の時期に関する原告花子の供述は信用できない。
3 乙山医師の供述の信用性
(一) 次に、乙山医師は、原告花子から「私は高齢であるので羊水の検査があるらしいので調べてほしい」という趣旨のことを言われたのは、二月一五日であると述べ、その際、原告花子に対し、結果判明まで三から四週間かかること、妊娠二二週を過ぎたら法律上中絶はできないこと、結果判明が妊娠二三週を超えるから異常が分かっても中絶はできないことなど説明したと供述する。
(二) この点、原告らは、カルテの同日の欄には羊水検査申し出についての記載がない点(乙二)を指摘し、乙山医師の供述によっても妊婦検診は午前中だけで二〇から三〇例行なうもので、乙山医師は右の点以外の原告花子との他の会話は覚えていないなど不自然であると主張する。
(三) 確かに、検査など希望があればカルテの主訴に記入するのが通常であるが(乙山医師)、乙山医師、原告花子の供述及び争いのない事実等を総合しても、被告病院では当時羊水検査は実施しておらず、原告花子もすでに看護婦から被告病院では羊水検査は実施していないと聞いていたこと、乙山医師は原告花子から中絶についての相談等を受けたことはなく、原告花子が羊水検査の申し出をしたのは一度だけで、乙山医師が羊水検査の実施に応じない姿勢を示すと、原告花子は一応四〇歳前でもあったのでそんなに障害児が生まれることはないのではないかと考え、それ以上の質問や要請をしなかったというのであるから、原告花子が実施につき強い希望を示したとは言えず、当時、診察上重要な情報ではないとして医師がカルテに記載しなかったとしても不自然ではなく、また、多数の妊婦を日常的に診察する産婦人科医師にとっては妊婦との間で交わされた平易な個々の会話内容を記憶していないとしても不合理ではない。
(四) 乙山医師は、羊水検査実施の申し出の時期を二月一五日とする根拠として、羊水検査は少なくとも三週間かかることを念頭に置いていて、法律上の中絶可能期間である妊婦満二二週という限界を越えていたという記憶に基づくと述べており、本件原告花子に対する妊娠週数の起算については、最終月経の始まった日を零週一日として起算し、分娩予定日を決めており、右二月一五日は妊娠二〇週一日目にあたるところ(乙山医師、乙一七)、同人は以前勤務していた他の病院で羊水検査の実施をした経験を有し、羊水検査は四〇歳以上の妊婦に対して適応があり、羊水検査の申し出がある場合には羊水検査を実施すべきであるという考え方に理解を持っており、中絶に間に合う期間に結果が判明するのであれば、その検査を行っている他の機関の情報を個人的に提供するなどした経験もあると供述していることに鑑みれば、同人が検査に応じない姿勢を示した理由として述べていることと矛盾無く一致し、その供述内容に変遷はない。
(五)(1) さらに、原告花子の出産後の状況及び発言を記載した看護記録には、原告花子が、羊水検査につき「妊娠二〇週で、ダウンの検査を望んだが、手遅れと断られた。」と発言した旨の記載が存在し(乙四)、乙山医師の供述と一致する。
(2) この点、原告らは、看護記録は作為が入るおそれが強いものである上、その記載順序が逆転している部分があり、記載を抹消した部分もあるなど、一貫性はなく改変されているため信用性はないなどと主張するが、看護記録は原告花子の産後の日々の状況が記載され、その内容は詳細かつ具体的であって、原告花子の発言として「羊水検査は看護婦から三〇週にならないとできないと言われた」旨の病院側の主張には反する記載も含まれており、その記載態様からすれば、後から作為的に改変されたものということはできず、日付の誤記程度に解され、右反論はあたらない。
(3) また、原告花子は、羊水検査の実施を依頼した際に、乙山医師から、羊水検査の結果の判明が人工妊娠中絶が可能な時期に間に合わないという説明はしてもらっておらず、二月一日、一五日が妊娠何週目なのかも、子供を何週で産むのかも分からず、出産後も、羊水検査を申し出た時期につき看護記録記載の如き発言をしていないという趣旨の供述をするものの、一方で、出産後の入院期間中の発言については精神的に混乱して良く覚えていないとも供述していること、また、妊娠週数についも、一般的に妊婦が妊娠週数について全く無知であるということは考えにくいこと、平成五年一二月に看護婦から「羊水検査は三〇週にならないとできないですよ。」と言われ、「えっ、三〇週?」と聞き返したと述べていること、二月七日交付された母子手帳には二月一五日以降週数の記載があること(乙一七)に鑑みれば信用できない。
4 以上の点に照らせば、原告花子が、乙山医師に対して、羊水検査の実施を申し出たのは妊娠満二〇週と一日にあたる平成六年二月一五日であって、乙山医師は結果の判明が法定の中絶期間を経過するとしてこれを断り、受検できる他の機関も教示しなかった事実が認められる。
三 人工妊娠中絶について
1 次に、前記で認定した事実を踏まえて、本件につき仮に原告花子の申し出に従って羊水検査を実施していた場合に、人工妊娠中絶が法的に可能であったか否かを検討する。
2 堕胎は、原則として刑法上の犯罪であるが、優生保護法は、胎児が母体外において生命を保続することができない時期に、都道府県医師会の指定医師により、人工的に胎児及びその付属物を母体外に排出する人工妊娠中絶につき、同法一四条一項各号に該当する場合で、指定医師の所属する施設で行なわれる場合には例外的に免責される旨を定めている。
3 そして、「胎児が母体外において生命を保続することができない時期」については、平成二年三月二〇日付けの厚生事務次官通知で、それまで妊娠二四週未満であったのが、平成三年一月一日より二二週未満に改正され、妊娠週数の判断については指定医師の医学的判断に基づいて客観的に行う旨の基準が定められている(乙三一)。
4 羊水検査の結果判明期間
(一) 原告らは羊水検査につき、培養には七から九日、染色体分析には二から三日ほどを要するだけで、実際は二週間位で結果を得られ、乙山医師は羊水検査の結果判明期間について誤解していたなどと主張する。
(二) しかしながら、証拠として提出された医学関連文献等(平成六年一〇月までに発行)を総合すれば、確かに右期間で結果を得るのも可能であるという場合もあるが(甲一、乙六、一〇)、羊水検査を積極的に実施している機関の報告例でも、通常の方法では羊水検査の最終判断に三から四週間かかるとされ(乙一、五から八、一一)、安全性、羊水中の細胞数の増加時期、採取の難易度から、実施に適切とされる時期は、かつては早い場合で妊娠一四週から、遅い場合で妊娠二〇週までとされ、中絶可能時期が満二二週までと短縮された後は、一〇日前後で結果が判明することを前提にしてもなお、遅くとも妊娠一九週末までには実施する必要があるなどとされている(甲一、乙一、五から八、一一、一九)。
(三) また、被告病院においては、被告病院内では染色体の検査は実施しておらず、株式会社エスアールエルとの間の商業ベースでの羊水細胞染色体検査受委託契約を締結したのは本件以降の平成六年一〇月一日で、それまでは採取した羊水を他の機関に送付し依頼しているのみであったのであり(乙山医師、乙二七)、平成六年一月から二月ころ、羊水検査を実施していた社団法人京都微生物研究所では最低三週間以上かかるというのであって(乙二一、二二の1)、検査結果の判明まで最低三週間かかるという乙山医師の認識に誤りはなく、仮に平成六年二月一五日の時点で乙山医師が羊水検査の実施に応じあるいは他の病院を紹介するなどして原告花子が羊水検査を受検したとしても、結果が判明した時点ではすでに人工妊娠中絶の可能な期間を経過していたことは明らかである。
5 なお、原告らは、厚生事務次官通知につき、胎児の母体外での生命保持の可能性については医師の客観的判断が当然優先するものであって、満二二週を越えても個別に判断して中絶ができる場合もあり得るなどと主張するが、堕胎が妊婦はもちろんこれを実施した医師も罪に問われる刑法上の犯罪である以上、産婦人科医師の恣意的な判断によって厚生事務次官通知で指定された中絶時期を延長することは許されず、本件原告花子の場合につき、乙山医師は分娩予定日を基準に週数を判断し、妊娠初期の胎児の計測によっても週数についての修正はなかったと供述していることに鑑みれば、原告の主張は到底採用できない。
四 原告花子の申し出に対する乙山医師の対応に過失はあるか
1 出産を検討する機会を得るべき利益の侵害について
以上認定した事実に照らせば、仮に、原告花子の羊水検査の申し出に従って、羊水検査を実施して、出生前に胎児がダウン症であることが判明しても、人工妊娠中絶が可能な法定の期間を越えていることは明らかであるから、原告らが出産するか否かについて検討する予知はすでに無く、原告花子の羊水検査の申し出に応じなかった乙山医師の措置が、出産するか否かを検討する機会を侵害したという原告らの主張は採用できない。
2 出産準備のための事前情報の提供について
(一) 次に、原告らは、人工妊娠中絶が不可能であっても、妊婦には出産準備のための事前情報の提供を受けるべき利益があるとして、乙山医師は羊水検査の実施をすべきであったと主張するので、以下検討する。
(二) 妊婦及び父親は、子供に異常が生じるかどうか切実な関心や利害関係を持つものであって、近年、胎児異常の原因についての知識と診断技術が進歩したことによって、出生前診断を利用して胎児の染色体異常の有無の診断を受ける妊婦も多くなり、染色体異常児の臨床症状の深刻さ及び両親の被るべき負担の大きさから、人工妊娠中絶に対する考え方や法律が影響を受けつつあることは否定できない。しかし、母体血液検査などの、障害児との確定診断には至らない程度の検査の実施の是非についても、倫理的、人道的な問題が指摘されているところである(乙二九)。これに比べ、羊水検査は、染色体異常児の確定診断を得る検査であって、現実には人工妊娠中絶を前提とした検査として用いられ、優生保護法が胎児の異常を理由とした人工妊娠中絶を認めていないのにも係わらず、異常が判明した場合に安易に人工妊娠中絶が行なわれるおそれも否定できないことから、その実施の是非は、倫理的、人道的な問題とより深く係わるものであって(甲七、乙五)、妊婦からの申し出が羊水検査の実施に適切とされる期間になされた場合であっても、産婦人科医師には検査の実施等をすべき法的義務があるなどと早計に断言することはできない。
(三) まして、人工妊娠中絶が法的に可能な期間の経過後に胎児が染色体異常であることを妊婦に知らせることになれば、妊婦に対し精神的に大きな動揺をもたらすばかりでなく、場合によっては違法な堕胎を助長するおそれも否定できないのであって、出産後に子供が障害児であることを知らされる場合の精神的衝撃と、妊娠中に胎児が染色体異常であることを知らされる場合の精神的衝撃とのいずれが深刻であるかの比較はできず、出産準備のための事前情報として妊婦が胎児に染色体異常が無いか否かを知ることが法的に保護されるべき利益として確立されているとは言えないから、出産するか否かの検討の余地が無い場合にまで、産婦人科医師が羊水検査を実施すべく手配する義務等の存在を認めることはできず、原告らの主張は到底採用できない。
五 適切時期の説明、実施義務について
1 最後に、原告らは、原告花子の申し出が人工妊娠中絶に間に合わなかったのであれば、乙山医師は人工妊娠中絶に間に合う適切な時期に、積極的に原告花子に対して高齢出産の場合の染色体異常児の危険や羊水検査の実施などにつき説明すべきであったなどと主張するのでこの点も検討する。
2 高齢出産とダウン症の関係
(一) 証拠として提出された医学関連文献によれば、ダウン症は、統計上、妊婦数全体でおおよそ一〇〇〇人に一人の割合で発生するものと言われているが、児の出生時の母年齢に大きく依存し、ある一定年齢で急に増加するのではないが、統計学的に高齢であるほど確率は高いと報告されている。
(二) しかしながら、年齢による発生頻度の統計例を総合すると、妊婦が四〇歳から四一歳までの場合の発生頻度は1%から1.23%であり(甲一、乙一、七、八)、三五歳から四〇歳まででは一%以下に過ぎない(甲一、二、乙一、五)。
(三) また、高齢出産の場合にダウン症児が出生する頻度が増す原因については、卵子の荒廃やウイルス感染などが議論されているものの、明確な特定は困難である(甲二、乙八)。
3 そして、羊水検査は、染色体異常の確定診断として用いられる検査であって、染色体異常児であることを理由とした人工妊娠中絶を促進させるという点で倫理的、人道的な問題点が指摘されており、医療機関と商業ベースの検査機関との実施依頼契約が締結されるようになったのは平成六年一〇月になってからで、それ以前は大学病院等の特定の施設、機関で実施されていたものであって、市中の総合病院では一般的に実施される検査ではなく(乙二五、乙山医師)、当時、病院においても検査の実施が普及しているとは言えない状況であったほか、羊水検査の実施につき医療機関と商業ベースの検査機関との契約が締結された後も、医師は検査につき広告宣伝をせず、検査案内等には記載されていないなど、その取扱は慎重になされている(乙二五、二六、二七、二八、乙山医師)。
4 また、羊水検査やその実施例を紹介する医学文献においても、羊水検査の情報を妊娠初期に妊婦に提供して、希望者がいれば原則的に施行するのが妥当と思えるとの意見もあるものの(乙六)、適応については日本産婦人科学会などの明確な基準はなく、施設の処理能力、遺伝相談の必要性などの問題から四〇歳以上を検査施行の基準とする施設が多く、三五歳から三九歳の妊婦では希望が強い場合にのみ行なっている機関もあるなど(甲一、乙五、六、七、九、一〇)、何歳から適応とするかは各施設間で異なっており適応年齢は一律ではない。
5 よって、何歳を適応として妊婦に対し積極的に染色体異常児の出生の危険率や羊水検査について説明するかは、医師の裁量の問題であって、病院の羊水検査に対する方針や、当該妊婦の臨床経過など個々の状況によって異なる事柄であり、満三九歳の妊婦で、妊婦から相談や申し出すらない場合に、一般的に、産婦人科医師が積極的に染色体異常児出産の危険率や羊水検査について説明すべき法的義務があるとは認められない。
6 そして、被告病院では、当時、高齢を理由とした羊水検査は勧めず、受け付けない方針であったこと(乙山医師)、原告花子は平成五年一二月には看護婦から羊水検査で出生前診断が可能であること及び被告病院では実施していないことを聞いていたこと(争いがない)、羊水検査は、羊水穿刺による子宮内胎児死亡、胎盤早期剥離、流産、子宮内感染が生じた例も報告されるなど危険なものであり(乙一、五、六、八、一一)、原告花子は、当時、子宮筋腫の手術後で、合併症による流産の危険性があり、薬を内服していて安静を保っている状態で、羊水検査の実施は流産率が更に上がる危険があったこと(乙山医師、乙二)、原告花子は検診以外に頭痛、腹痛で通院を繰り返し、出産に対し神経質な状況であったこと(乙山医師)に鑑みれば、乙山医師が原告花子に対しダウン症児出産の危険性や羊水検査の説明等をしなかったことにつき、産婦人科医師としての過失を認めることはできない。
六 以上の次第であって、乙山医師の行為には産婦人科医師としての義務違反を認めることができず、原告らの請求はいずれも理由がないからこれを棄却することとし、訴訟費用については民事訴訟法八九条、九三条を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官下司正明 裁判官橋本眞一 裁判官松信有紀)